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ヒム,実験的なコント,あるいはテクストによるポップアート

.17 2010 短篇 comment(5) trackback(0)


先日、Twitteのタイムライン上で、「ヒム,実験的なコント,あるいはテクストによるポップアート」と題して、数日間にわたりツイッターノベルを連続ツイートしました。その時のツイートを纏めたサイトをここでリンクすると共に、蛇足じみた注釈をちょっとだけ書いておきます。


まとめサイト→http://togetter.com/li/27515


註釈:絢爛たるローマン・カトリックの聖誕祭を鑑賞していると、宗教の基本はやはりスペクタクルなのだ、という単純な事実に思いあたり、あらためてイエス・キリストの受難物語の奇跡の一つ一つの重要性に気付くとともに、彼の死後、それらの奇跡にちなんだイコンを一面にちりばめて、宗教のスペクタクル化に磨きをかけたカトリック教会の見事なプロデュースぶりに驚かされるのだが、それはそれとして、先日、ヒムという罰当たりなコントを書いた時に参考にした作品を幾つかここで紹介しておきたい。

まずはマーティン・スコセッシの『最後の誘惑』。

この映画のなかでウイレム・デフォーが演じるイエス・キリストが、肉欲にも悩まさせる普通の若者として描かれているとかで、衝撃の問題作とか騒がれていたが、さほどのことはなく、結構、聖書研究書の<史実>に基づいて描かれているらしいよ。

それよりも問題なのは、スコセッシ独特の屈折した美意識が織りなす徹底した写実的演出と、宗教画から引用した古典的演出の混淆からもたされた不思議な映画的快感の存在である。特に圧巻なのは磔刑の場面で、観る者にキリストの痛みがひりひりと伝わってくるのだが、それは処刑法を歴史的に検証して細部にいたるまで再現したという完全主義にのみ起因するのではなく、古典的な様式美をそなえた宗教画からの引用を導入することで、観る者の時間の感覚を緩慢に狂わせていくという、きわめて実験的な手法からくる感動によるものだ。

ぼくはストリー・テリングで味わう感動も好きだが、こうした実験的な手法によってもたらされる不思議な感動にも目がないのである。

かつて、白金にあった都ホテルの地下のフレンチ・レストランに、ボリュームたっぷりのテンダーロイン・ステーキの上に、そのステーキと同じ大きさのフォアグラのソテーを載せた料理があって、その料理の掟破りの旨さに下衆な感動を覚えたことがあるのだが、スコセッシがこの映画に仕掛けた罠には、その時以来の手厳しい背負投げを食らわされたよ。

次に、ピエル・パオロ・パゾリーニの『奇跡の丘』。

いわゆる<聖書映画>といえば、セシル・B・デミルの『十戒』に代表されるように、オールスターキャストを謳うハリウッド大作でありつつも、アメリカ最大の勢力であるキリスト教右派への目配りを忘れない政治的産物であったり、あるいは原典に忠実とは云いながら、必ずしも<聖書>だけに拠るものではなく、ヨセフスの手になる『ユダヤ古代誌』の中で描かれた伝説にすぎない<モーゼのエチオピア遠征>のシーンが最大の呼び物であるスペクタクル映画であったりしたものであるが、スキャンダルな無神論者として知られるパゾリーニは、こうした映画的なギミックを意図的に廃すことで、当時としてはまったく新しいキリスト像を創造することに成功したのだ。

たとえば彼は、まったく無名の素人俳優を使うことで既成のキリスト的イメージを破壊し、返す刀で、クリスチャンには耳慣れたはずのエピソードを新たな視点で眺めさせる。

そのうえで彼は、保守的なキリスト教団体の推薦を受けるほどに誠実な態度を装い、<マタイ>の福音書を忠実に映画化したのであるが、このあたり誠に食わせ者であって、キリストを<保守的に>解釈する<マタイ>を忠実に映像化すればするほど、キリストが希代の<革命家>であったことを強調する結果になるという、皮肉な離れ業を成し遂げているのである。嘘じゃないってば。

次にジャン・リュック・ゴダールの『ゴダールのマリア』。

べつに物議をかもした映画ばかり選んでいるのではないのだが、面白い宗教映画を探すと結局こうなる。

この映画もまた新解釈による<処女懐胎>で世間を騒がせた。ここでもスコセッシ同様、古今東西の宗教画からのとんでもない引用が次々に出てくるが、この手法はむろんゴダールの方が早い。あたりまえだ。ゴダールより早い映画作家などいない。ただし映画を破壊してまわる逃げ足の早さだがね。

ところで、さっき、『最後の誘惑』を観てキリストの痛みに心打たれたと書いたが、そうとも、ぼくはその痛みを乗り越えてヒムというコントを書いたのだ。なんてね。

さて、ゴダールもまた、胸の傷みを隠して他人の心を傷つけてしまう不幸な人間であった。盟友フランソワ・トリュフォーとの蜜月と反目。いつしか憎みあうようになったトリュフォーの急死。ゴダールが殺したようなものだと云われた。しかし、誰よりも悲しんだはずのゴダール。きっと、早世するのはトリュフォーではなく自分の権利だと思っていたことだろう。

最後に光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。

光瀬龍こそ、石川淳、山田風太郎と並んで現代日本で最高のスタイリストではないかと思ったりもするぼくなのだが、この大河哲学思弁SF小説に登場するキリスト像のおぞましさは、その格調ある文章と反比例するかのごとく激烈で、およそ純真なクリスチャンなら怒髪天を衝くこと疑いなしであろう。

ぼくが、少々のことなら書いても構わないなどと、大それたことを考えたのも無理はない。なにしろイエス・キリストが実はXXXXで、さらにはXXXXだというのだから、とても恐ろしくてここには書けない。

小説版と共に、萩尾望都による漫画版の『百億の昼と千億の夜』を推薦しておく。

この禁断の書を映像化しようという勇気と、その完璧な出来ばえには溜息をつくばかりだ。ちなみにこの本、後藤久美子か中谷美紀主演で映画化するってのはどうかね。監督はもちろん『ダーク・エンジェル』のジェイムズ・キャメロンしかおるまい。

紙芝居じみたジョークに逃げないという保証つきなら市川昆に撮って欲しかったのだが、手塚治虫の『火の鳥』の映画化の出来が酷かったからなあ。パゾリーニみたいな感じで淡々と映像化して欲しかったのに。なんだよ、あの下手なアニメは。結局マンガを馬鹿にしてたんだね、巨匠は。キャメロンの方がよっぽど日本のマンガへの敬意を感じるよ。

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ルカとマルコのあいだのマリア

.03 2010 短篇 comment(0) trackback(0)


ルカとマルコのあいだで、マリアは戸惑いの色をかくせずにいる。光栄にも、いずれ<救世主>と呼ばれることになる偉人を処女懐胎した奇跡の聖母としてふるまえばいいのか。あるいは不敬にも、おのれを神の子と詐称する<痴れもの>を産んで悲しむ凡婦としてふるまうべきなのか。いったいどちらの私が、ほんとうの私なのか。

『そりゃあ聖母でいられるに越したことはないけどさ、どっちつかずの宙ぶらりんでいるくらいなら、娼婦におとしめられても構わないってもんだわ』

それほど彼女の困惑は深い。まさしくルカとマルコの福音書に描かれたマリアの立場は、ちりぢりに引きさかれている。もしも彼女が二十世紀後半に生をうけていたならば、『アイデンティティの喪失だわ』とでも呟いて、週に500ドルもする精神分析医の診断を受けていたに違いない。

たとえばルカが記すのは、大天使カブリエルが神からつかわされ、ナザレというガリラヤの町にすむ、ひとりの処女のもとにさっそうと登場したときのことである。

この処女はヨセフという男の婚約者であり、その名をマリアという。ガブリエルはマリアを祝福する。
『おめでとう。主があなたと共におられます』
このことばにマリアは紅潮し、胸をときめかせる。
『おお! やはりわたしは黒騎士ダース・ベイダーの娘。そして英雄ルーク・スカイウォーカーの双児の姉だったのですね!』
大天使ガブリエルはそんな彼女を優しく諭す。
『あわてるなマリアよ。フォース・ビー・ウィズ・ユーと云ったのではない。ロード・ビー・ウィズ・ユーだ。だいいちこの話はスター・ウォーズではないのだ。これから、あなたは身ごもって男の子を産む。その名をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と唄えられるでしょう。そして主たる神は、彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家、すなわちイスラエルを支配し、その支配はかぎりなくつづくでしょう』
マリアはいぶかしんで云った。
『どうしてそんなことが。私にはまだ夫はありませんのに』
大天使は意味ありげにウインクして云った。
『精霊があなたに降臨し、いと高き者の力があなたを覆うでしょう。おほんおほん!』
なぜか赤面した大天使ガブリエルは咳払いをしてからつづけた。
『それゆえ、生まれでる子は聖なる者であり、神の子と唱えられるでしょう』。
マリアはここにきてようやく、これが最近、女性週刊誌を騒がせている<受胎告知>であることに気づき、落ちついて答えた。
『私は主のはしためです。お言葉どおりのことがこの身におきますように』
すると大天使は満足げに翼をひろげ、作者が24行削除したのち、彼女のもとから飛びたった。

と、まあ、このように、ルカにおいては<処女懐胎>が当然の出来事として記されているわけだが、ここでのマリアは、ひとまず、古今東西の聖母子像に描かれている御姿に相応しい、機知と魅力にあふれた女性であると云えよう。
それではマルコの証言によるマリアはどのようなものであったか。

ある昼さがりのこと、故郷に戻って布教運動をはじめていたイエスが、弟子たちをひきつれて仮設事務所にはいると、彼の非常識な発言の数々に驚いた群集が集まってきて大盛況となり、イエスと弟子たちは食事をする閑もないほどであった。
身内の者たちはマリアからこのことを聞きつけて、イエスをとりおさえにやってきた。もちろん気がふれたと思ったからである。
さて、イエスの母と兄弟たちがきて、仮設事務所の外に立ち、人をやってイエスを呼ばわせた。そのとき群集はイエスをかこんで座っていたが、だれかが、『ほら、ごらんなさいよ。あなたの母上と兄弟姉妹たちが、外であなたをたずねておられますよ』と云った。
するとイエスは群集にこたえて、
『私の母とはだれのことか。私の兄弟とはだれのことか』
そして、弟子たちのほうに手をさしのべて云った。
『見よ、ここに私の母、私の兄弟がいる。神のみこころをおこなう者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである』
これを伝え聞いたマリアはヒステリ?を起こして卒倒した。

と、まあ、こんなしだいで、ここでのマリアは、独身生活が長すぎた息子がついに<頭が不自由な人>になり、まったく人騒がせなことをはじめたものだから、世間体もあることだし、親戚の力をかりてでも、自宅に彼をつれて帰ろうとあたふたしている、という姿だ。よくある世間話に登場する、よくいる類の平凡な母親である。どちらがほんとうのマリアなのか。

そういうわけで、マリアとしても、おのれの自己同一性についての困惑は深まるばかりだ。
ラテン語はもちろんのこと、英語もろくに読めない作者のつごうで用意された、日本聖書教会出版による日本語口語訳の福音書を数冊、それから岩崎美術社出版のロマネスク美術史、平凡社出版の宗教画大百科などをぱらぱらとめくるたびごとに、マリアは文意にそって、あるいは画風にあわせて、顔の造作を自在にくるくると変貌させてゆく。
いかにも聖母にふさわしい威厳あるア?リア系の賢夫人の横顔をちらつかせた次の瞬間には、女の敵は女、とでも云いたげなラテン系の高級娼婦めいた美貌の眉をひきつらせる。かと思うと、こんどは亭主に虐げられ、息子に裏切られ、服従に馴れたしぐさがいちいち嗜虐趣味をそそるアラブ系の中年女のうつろな瞳を涙でぬらしてみせる。さらには、影のうすい旦那のことなどきっぱり忘れて、すべての希望をこどもに託したまではいいものの、肝心のこどもが未来八方ふさがれて窒息し、猫虐待、登校拒否、援助交際、ヒッキー、ストーカー、浮浪者狩りなど、敵がみえないことからくるらしい最新流行の階級闘争をひととおりこなしたあと、はては理由なき無差別殺人などひきおこし、幸福な未来設計すべて御破算という悲鳴にくれるアジア系の教育ママの厚化粧まで披露するなどして、実にいそがしい。

マリアはひとりごちる。
『だけど、どっちに転んでも、あの子の出生の秘密は隠しおおせないのかしら』
なるほど、宗教画によって描かれたさまざまなイエスの顔は、どうみてもユダヤ人のようではない。おのれの七変化はさておいて、
『イエスがユダヤの子ヤーウェの子として認められているのなら、あんな、非・ユダヤの顔で描かれているわけがないわ』。
というのがマリアの考えだ。
あれではまるで、
『…ロ?マ人だわ』
そうつぶやき、なぜか頬を赤くそめた彼女は、宗教画に描かれた息子の姿を静かにみつめる。たしかにその青年の風貌は、イタリアのサッカーリーグ、セリエAのトップチーム<ASローマ>に所属する花形選手に酷似している。おもいつめた彼女は急いで新訳聖書の冒頭に目をはしらせ、ほっと安度のためいきをつく。
そこにはこう書かれていた。

<アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図>。

『おお。これこそ、私が求めていた証拠だわ。この本は、あの子が、ユダヤの神ヤーウェと由緒正しいユダヤ人である私とのあいだに生まれた神の子であることを、証明したいわけだから、この系譜にずらずら並んでいるのは、私のご先祖様にちがいない。これで、私のルーツが確認されるのだわ!そして、あの子のユダヤ的正統性も確認されるのだわ!』
マリアはいそいそと系譜をたどった。

ところが、結果は残酷なものだった。系譜の最後はこうだ。

<ヤコブはマリアの父ヨセフの父であった。このマリアからキリストといわれるイエスがお生まれになった>。

マリアは頭がくらくらしてきた。
『なによこれ。よく判らないわ。やこぶハまりあノ夫よせふノ父デアッタ。つまりマリアすなわち私はヨセフの妻ってことよね。ということは、マリアはヤコブの義理の娘ってことよね。ということは…。なによこれ! これってつまり、アブラハムからずらずらと並んでいる子孫は、ぜーんぶ私の亭主のご先祖様ってことじゃん!』
そうなのであった。そして、さらにマリアにとって致命的なことがあった。自分のルーツがあきらかにならなかったばかりではなかった。
この系図が意味するものは、ようするに、新約聖書の紙面上に、さながら蟻の行列のごとくならべられた義理の父ヨセフのご先祖様と、イエス・キリストとは何の関係もない、なぜならばイエスはマリアの私生児であるから、というものである。いうなればイエス・キリストの<私生児宣言>である。

『たった一度の過ちがこんなことに…』

こうしてマリアはうちのめされ、自己実現への意欲をうしない、永遠にルカとマルコのあいだを漂うことになったのである。

私はマリアに同情する。もし、そこに、マタイの福音書があったなら、と。
マタイによれば受胎告知は夫ヨセフに告げられ、マリアには何のお告げもなかったという屈辱的な話ではないか。これを知れば、マリアの怒りは天にも昇り、男尊女卑撤廃を神に誓ったろう。
しかし残念なことに、<聖母マリアのフェミニズム転向>という最悪のシナリオを恐れた夫ヨセフの手で、マタイの書は上野千鶴子とジュリア・クリスティヴァの著作とともに、屋根裏部屋に隠されていたのだった。





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聖書についてよく耳にするジョークを軽いコントに仕立ててみました。出来心です。読み流してください。

盗まれた夜

.02 2010 短篇 comment(1) trackback(0)


あの頃は散歩ばかりしていた。それもできるだけ遠くまで歩き、意図的に道に迷い、見知らぬ町で、思いがけない小さな発見をすることを期待しながらの散歩だった。ある新月の夜、そのようにして辿り着いたのが、あの不思議なアーケード街だった。あの頃のぼくにとって、それはまるで喜望峰をよこぎる豪華客船のように、途轍もなく華やかな存在との遭遇に思えた。まるで夢をみるような勢いで、そのアーケード街を隅から隅まで探索した。カフェでアイリッシュ・コーヒーを飲み、雑貨屋でドイツ製のナイフを触り、古本屋で旧仮名使いの聖書をめくり、楽器屋でアフリカのドラムをブラシでブラッシュしてから、果物屋の店先で銀色の林檎を盗むそぶりをしてみた。でも、時間ってやつはしみったれているらしく、その夜の分け前はあっという間に消えた。そして、そのアーケード街からの不本意な帰宅の途中の夜道で、藍色の空に浮かびあがる美しい高層マンションの影を見てしまったのだ。その巨大な影は、貧乏で、夢もなく、何よりも野心とでもいうべきものや、あるいはそのたぐいの生命力に欠けているぼくには、とてつもなく到達不可能な距離にあるものとして映った。そして、ぼくは半ば自虐的に、疲れた躯に鞭うつように、みしらぬ路地からみしらぬ路地へと盲目的に足をはこんで、さらに道に迷うことにした。それから、粗雑なモルタルの壁にはりついた蛾と蜘蛛の逢瀬を怪しみ、それから、巨大駐車場のなかの車の列に紛れこみ、まるで息を潜めて獲物を狙う野獣達がようやく眠りについたかのような気配に、そっと畏怖して、それから、コンクリートのかたまりがジャングルジムのように林立している破棄された工事現場を、コヨーテのようにうろつき、ひとしきり無垢な道化のふるまいをしたあと、ひとりで赤面して、それから、誘蛾灯の光を浴びて銀粉を散らす蛾の群れに追われながら、細い路地裏に迷いこみ、銀色の月のひかりが破線状に降りそそぐ広大な草原をさまうことになるのだが、ふと気がつくと、なぜぼくは細い路地裏にはありえぬはずの広大な草原にいるのだろうかという恐怖にかられ、あわててその路地裏から逃げだした。見知らぬ町の繁華街に辿り着いた。それから電車に乗ってアパートに帰った。





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註釈:どうせぼくなど、やさぐれた断片にすぎない。断片は不揃いで、価値がなく、交換不可能で、だから市場で値がつかない。それがどうした。だから唯一無二の存在なのさ。ぼくは断片が大好きだ。因果を言い含める時には密かな暗示だけでいいのさ。それで十分だ。そう思わないかい?

アシッド、あるいはラディカル・ナルシズムの誘惑 #2: when doves fly

.09 2010 短篇 comment(3) trackback(0)


窓の外の風景に厭きたのでカーテンをつけることにした。明るすぎるくらいの部屋が好きなので、今までリビングには付けずにいたのだが仕方がない。大井町の駅ビルの中の雑貨屋で安いベッドカバーを購入し、金具をつけてカーテンがわりに吊してみた。思えばこうして何かに厭くたびに、すべてをチャラにして、ありったけを失って、無益な転居を繰りかえしてきたのだ。
ここにくる前は恵比寿の古いマンションの10階に住んでいた。駒沢通りに面しており、夜中でも車の騒音が鳴りやまず、振動に馴れるまでは眠れなかった。恐ろしく古いマンションだった。今ではあの高さの建築物は建てられないはずだ。水道水には色がついていて、とても飲めたものではなかった。屋上の貯水槽に鼠の屍体でも浮いているのだろうと思った。毎日、ミネラル・ウォーターを買うことにした。電気系統は漏電しているらしく、転居した翌日、東京を直撃した台風のさなかにあっけなく停電した。翌朝、台風が去った快晴のなかで電力会社に電話していると、脈絡もなくいきなり電源が復旧した。乾いたら通電したらしい。もう知ったことか、勝手に漏電するがいい、そう思って電話を切った。ベランダのコンクリートには無数のヒビが入っていて、そのヒビの隙間から赤錆びた鉄骨が見えた。いつ落下してもおかしくないと思った。
その年の冬、このベランダに鳩のつがいが巣を造り、四個の卵を産んだ。黄色く変色した一個をのぞいて三個の卵が孵った。孵化を楽しみにしていた鳩の雛は驚くほど醜かった。いつ可愛くなるのだろうかと思い、成長を楽しみにしていた三羽の雛だったが、その醜い姿のままに大きくなっていった。ある日、一匹の雛が飛行の練習をしているのを目撃した。ベランダの一角に凹みがあり、40センチほどの間隔があるのだが、大きく広げた羽をさかんにばたつかせ、その40センチの間隔を何度も危なっかしくジャンプして往復しているのだ。しかし、たかが40センチとはいえ、その隙間から足を踏み外せば、地上10階の高さから眼下のアスファルトに落下してしまうのだ。森に棲む鳥たちと比べて余りにリスクの高い飛行練習ではないか。その時はじめて、鳩の雛を可愛いと思ったのだったが、そういえば、あれは、その冬のことだった。
一緒に暮していたKとは口争いが絶えなくなっていた。ある夜、ついにKは帰ってこなかった。明け方になっても帰ってこなかった。こんな事は始めてだった。Kと暮しはじめてから一晩として離れていた事はなかったのだ。白みはじめた空を意識しながら、玄関のドアを開けて通路に出た。エレベータの音に耳をすませた。外階段の踊り場に立ってマンションの入口を犬のように見張った。そして階段を何度も降りては上がり、上がっては降りた。体を動かしていないと胸が焦げつきそうだった。ときおり部屋に戻って電話を確認した。心当りに電話する勇気はなかった。
夜明けは過ぎてしまった。朝のひかりを浴びながら踊り場に立っているのが苦痛になってきた。眼下のマンションの入口には平和な日常があった。赤いランドセルを背負った少女が駈けていった。部屋に戻ってシャワーを浴びた。温水を浴びながらタイルの上に座りこんだ。脈絡のないことを考えながら、今日やるべきことのリストを数えあげた。ひとつ、地図帳でKがいる場所を確認すること。ひとつ、東急ハンズでハンティング・ナイフを買うこと。ひとつ、Kの相手を不具者にすること。ひとつ、Kを殺すこと。シャワーの熱い飛沫を浴びながら、今日やるべきことのリストを何度も何度も諳誦した。





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註釈:他者というのは自分という境界のなかには存在しないものなので、その境界線の外が幻覚なのか現実なのか、もしかしたら判らないのではないでしょうか。よく判りませんが。
また、ヴィトゲンシュタインに「自分の限界値の境界線を引くことは出来ない」という発言があることを、私はあるハードボイルド小説の主人公の科白によって知っていますが、そもそも境界線を引いてみるような余裕があるのなら、さっさと踏み越えてしまえば良いのかもしれません。
振り返ってみれば、自己の形成とはすなわち、断続的な失策の積み重ねにほかならないように思えます。自己を野菜に例えてみれば、さしずめアーティチョークでしょうか。失策のアーティチョーク。ぼくはアーティチョークが大好きです。とりわけ地中海を現前にしたカダケスのビーチカフェで食べたニース風サラダの味は格別だった。カダケスにニース風サラダがあれば、という架空の話ですけどね。

アシッド、あるいはラディカル・ナルシズムの誘惑 #1: akasaka strut

.03 2010 短篇 comment(4) trackback(0)


街路で暗い眼をした未知の女を呼びとめて、「私は怖い、だから、しばらく私について来てくれませんか?」と、その女に言う男は、彼女に永久の恐怖を道連れとして与えることになる。こう書いたのはモーリス・ブランショという作家だが、あの頃、私はこれに似た経験をしたことがある。千代田線の地下鉄の電車のなかで視線を感じた時のことだ。眼をあげると、そのひとと眼があった。べつに醜いひとではなかったのだが、私は汚いものでも見るようにして眼をそらした。疲れていた私は自分の顔をまじまじと見られたくなかっただけなのだが、そのひとは気分を害したらしく、ますます私の顔を見つめつづけた。時間がゆっくりと過ぎていった。喉の奥で空気が詰まり、吐き気がしてきた。ようやく電車が仕事場のある赤坂に着いた。逃げるように降りると、そのひとも降りてきた。そして、私のあとを着いてくる。気のせいかとも思ったが、改札をすぎ、地下道をぬけ、地上にあがり、仕事場のある方角に向かっても、そのひとはまだ着いてくる。仕事場には行けないと思った。場所を知られてしまうからだ。場所を知られたらおわりだ、なぜかそう思った。私はあてもなく歩きつづけた。ときおり振りむくと、そのひとは、5メートルほどの間隔をおいて着いてくる。気のせいかもしれない、私が立ち止まれば、何事もなかったかのように私を通り過ぎるのかもしれない、何度もそう思ったが、立ち止まる勇気はどこにもなかった。いつのまにか六本木を歩いていた。私は交差点から溜池のほうへ降りていった。そのひとも降りてきた。私は胃のなかに血でできた煮こごりができて、その煮こごりがぷるぷる震えているような錯覚に襲われはじめた。足を進めるたびに、そのリズムに合わせて、血の煮こごりが胃のなかでぺたんぺたんと飛び跳ねた。このまま歩きつづけるわけにはいかないと思った。私はコンサート・ホールのあるモダンな敷地内を通りぬけ、隣接するホテルへと向かう細い通路を進んだ。もう振り向くことはしなかった。細い通路の終点が唐突に開き、ホテルのロビ?の吹抜けの空間が目の前に広がった。ロビーは混雑していた。ラジオのチューニング・ノイズのような喧噪をぬけて、私はエスカレーターに乗り、上昇した。四回、上昇した。五階で降りた。その階には、打ち合わせで一度だけ入ったことのあるエスニック・レストランがあった。錆色を施した鉄枠で四隅を保護された硝子の扉を開いて、そのエスニック・レストランに入った。パクチーとガーリックの匂いが鼻をついた。店員にいいつけ、一番奥のテーブルを選び、入り口と対峙するように座った。その瞬間を待った。そして扉が開き、あのひとが入ってきた。あのひとは私をみると、無表情に店員に何かを告げ、私のほうへ歩いてきた。そして私のテーブルのまえに立ち、私の正面の椅子に座り、私をみつめた。今にしてようやく判ることがある。あの瞬間こそ、あのひとが持っていたあらゆる恐怖が、この私に譲渡されてしまった瞬間だったのだと。そのあとのことはよく覚えていない。あのひとはキールを、私はダイキリを飲んだ。ふたりで村上春樹の新作の話と和服の展示即売会の話をした。そしてロビーに降りて、ダブルの部屋をとり、愛の行為の模倣をした。あのひとは私を原生動物のように扱い、私はあのひとを腔腸動物のように扱った。ふたりでアンモナイトの化石のように猥褻な時間を過ごして、別れた。再びあのひとと会うことはなかった。





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註釈:初出時とはタイトルを変えました。原題は『A.S.I.D.』というものでしたが、これは『Ayrton Senna is dead』を省略したもので、最終話でアイルトン・セナが事故死した日付と関連付けようという意図があったのですが、もはやそういう意識は一切なくなりました。なんとか日本語の題名に変えたくていろいろと模索しましたが、何も浮かばず、結局アルファベットをカタカナに変えて、更に副題を付けることにしました。これはヴォルテールの短編『カンディードまたは最善説』に倣ったものであり、しかもこのコントをぼくは読んでもいないのですから、見え透いたハッタリに過ぎません。しかし、これを元に映画化された『ヤコペッティの大残酷』は映画館で観ており、しかも、ぼくが偏愛する映画としては三本の指に入る怪作ではあるのですが。
さて、いずれにしても、この作品はアイルトン・セナともヴォルテールともアシッドともラディカル・ナルシズムとも関係はなく、たまたま今日の気分で付けた題名であり、また、連作のつもりで書き始めた作品でもあるのですが、こんな短いものでも、書く際に長い助走とそれなりの集中力が不可欠なので、まとまった時間がとれないままに、三つほど書いただけで中断していました。しかも、再掲載するにあたっては、ひとつでもいいから続編を書いてから実行しようと思いつつ、いまだに何ひとつ書いていないままにアップしてしまいました。大丈夫でしょうか。
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プロフィール

ashzashwash

Author:ashzashwash
桑原義江。男性。Ash。あるいはy<kと名乗った事もある。あるジャズ・レーベルのマネジメント・オフィスに勤務。その傍ら知人の紹介で、ファッションビルの広告媒体や某音楽系出版社の女性雑誌にアート関係の記事を書かせて頂き、その稿料で貧困生活を糊塗する日々が続く。或る日の朝、出勤のため恵比寿の坂道を下っている時に何もかもが嫌になり、地下鉄丸の内線日比谷駅のホームのベンチに蒼白な顔色で座っている姿を学生時代からの友人が見かけたのを最後に、東京23区内から失踪。赤坂のオフィスのデスクの上に残された遺留品は、デルヴォーの画集、カランダッシュの青いボールペン、それからビル・ラズウェルのライブのデモテープ、以上の三点であった。その後、アムステルダムの娼婦街でよく似た横顔の女衒を見かけたという報道もあったが、本人が非公式に否定。現在に至る。

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