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アジャーニの架空の死に涙する愚かなるわが魂

.27 2010 女優 comment(1) trackback(0)


クロード・ミレール監督の手になる『死への逃避行』という映画を観ながら思ったのだが、イザベル・アジャーニという貧相な女優の、どこか思わせぶりで不器用な演技をまのあたりにしながら、そんな彼女の彼女らしい不器用さのすべてに感動してしまったことを告白しておきたいのだが、ようするに感動したってことは惚れたってことよ、とでも口にするしかないだろう。

たとえば、やはりアジャーニが登場する『サブウェイ』という映画を思いだしてみる。すると、なんということか、リュック・ベンソンによる世間を小馬鹿にしたような法螺話と、生きた映画史とでもいうべきアレキサンドル・ドローネの手になる卓越した映画美術を堪能したあと、「あの下手な女優さえいなけりゃいい映画なんだけどね」などと舌打ちした過去を思いだし、ああ、これではアジャーニにいさぎよく謝罪でもするしかないのであるが、してみると、フランソワ・トリュフォーによる『アデルの恋の物語』をただひとつの例外として、ぼくを感動させることにはさほどの成功をおさめてこなかったアジャーニのはずであったが、『死への逃避行』のヒロインである連続殺人犯カトリーヌに扮した彼女ときたら、切なくていたたまれない感情で、ぼくの心臓をわしづかみにしてしまったというわけだ。

この意外な展開の真相をあかせば、クロード・ミレール監督による、いかにもフランス人らしいリズム感の欠如を補うかのように、観る者をせきたててやまぬ性急な演出なくしてはあり得なかった感動に違いない。では、そのクロード・ミレールとはどういう人物なのか。

彼の経歴をひもとけば、どうやらヌーヴェル・ヴァーグ運動はなやかし1960年代後半、ゴダールやトリュフォーの映画のスタッフとして名を連ねた後に、1970年代にはいってから映画監督へと身を転じたらしい男なのだが、確かに、この『死への逃避行』においても、三文雑誌の占星術に操られるように旅をつづけ、名前を換え、殺人をくりかえす山羊座のヒロインには、やはりコミック・ストリップの主人公の犯罪を模倣しつづけた、あの『気狂いピエロ』のベルモンドのイメージがあからさまに透けて見えるし、また、同じく『気狂いピエロ』のヒロインであるアンナ・カリーナにいたっては、ヒロインを演じようなどとは一切せず、むしろ積極的に自分自身を演じることで、まるでアンナ・カリーナのプライベ?ト・フィルムのなかで逃走劇が行われているかのような新鮮な目眩を観客に与えたのであったが、この『死への逃避行』におけるアジャーニの魅力もまた、現実の人気女優と虚構のヒロインとの境界をあえて曖昧にしたままの、危ういともいえる演出に負うところが大きいわけで、ここまで書けばクロード・ミレールの映画がどういうものかある程度は想像していただけるであろうし、あとは蛇足とでもいうしかあるまい。

つまり話は昔ながらのフィルム・ノワール。悪女が男をハンティングする物語。映画はそのような期待に対してあからさまに応えていく。まずは探偵が登場し、様々なカメラを使いこなし、観るということのプロとしてアジャーニを追うはめに陥る。そんな探偵の前で、鮮やかな映画的運動をつづけるアジャーニには、探偵とともに観客も思わず溜息をつくしかない魅力が存在している。いずれにしてもこの瞬間、探偵の視線と、観客の視線は見事に交錯し、探偵とともに、観客はしだいにアジャーニに魅了されていき、アジャーニをひたすら見守るだけの木偶の坊と化してしまった己を自嘲することになる。そして、同様の木偶の坊である探偵は、忠実に木偶の坊としての任務を果たし、時には、アジャーニの大胆すぎる犯行の後始末さえしながら、ブリュッセル、ニース、バーデン・バーデン、ロ?マ、ビアリッツ、シャルヴィルへと追跡をつづける。しかし、実のところは、ここまでのアジャーニはあいかわらず美貌だけが取り柄の着せ買え人形のままであるのだから恐れ入った話で、実際のところ、ぼくは彼女の着せ買え人形ぶりに魅せられているにすぎないのかもしれない、そんな考えが脳裏をかすめた次の瞬間、嘘のうえに嘘を塗りつけながら男どもを振りまわす、美貌のファムファタールを演じているはずのアジャーニの仮面にヒビがはいりはじめる。

ここから、物語は急速にアジャーニの素顔ともいうべき神経症の皇女めいた無防備な求心力に巻きこまれ、意外な感動を用意して観客を待ちうけていたのだが、それはすなわち、はじめて愛した男のまえで父の死の真相を語りながら、悪女の仮面を外しはじめたヒロインを演じるアジャーニであり、それはすなわち、やがて追いつめられ、ただの田舎娘という素顔を暴露してしまうヒロインを演じるアジャーニであり、それはすなわち、この先に演じるべき何者も存在しないことに気づいて死を決意するヒロインを演じるアジャーニであるのだが、ここでのアジャーニは、死への予感がオーラのように頬を染めあげ、かつてトリュフォーがこよなく愛したという、子鹿のように臆病で、山猫のように高慢な瞳を取りもどしており、そして遂には、アジャーニが不器用に演じきったヒロインの死に涙する観客を、少なくともひとりは獲得することに成功したのだ。





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参考資料:死への逃避行


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Who Are You?

.06 2010 女優 comment(9) trackback(0)


イザベラ・ロッセリーニの『ブルー・ベルベット』。そして、ジュリエット・ビノシェの『ダメージ』。このふたつの映画の話をしてみたい。なぜなら、このふたつの映画のヒロインは、きわめつけに対照的な女優としてぼくの前に現れたからだ。

イザベラ・ロッセリーニといえば、イタリアの名監督ロベルト・ロッセリーニを父に、北欧の名花にしてハリウッドの名優イングリッド・バーグマンを母に、そしてハリウッドきっての美形ごのみの映画監督デビッド・リンチを愛人に持つという、いわば<純粋培養>の女優である。すなわち、<観られること>を宿命づけられている存在なのだ。たとえばラテンの血が流れる豊満な肉体は、オリーブのヴァージンオイルをたっぷりと使って味付けされたシチリア料理のように濃厚で、母親とうり二つの美貌に嵌めこまれた青い瞳は、さながらスカンジナビアの凍河に封じ込められた氷晶のきらめきにも似て、儚げに虚空をみつめている。女優という職業を選ばずとも、どうせ、女優のように<観られる>ことを免れる術はなかっただろう。実際、彼女はすなおに映画の道を歩もうとしてはしなかったのだが、結果として、『ブルー・ベルベット』の逆説的なヒロイン、クラブ歌手ドロシー・バレンズへと辿りつくことになった。
この映画でイザベラが演じるドロシーの肉体は、視線の恵みを浴びすぎたのか、熟れた果実めいた腐敗臭を漂わせており、その危うい瞳は、カイル・マクラクランに突きつけたナイフのように、彼女を見つめる全ての視線と刺し違えようとして身構えている。しかし、そのドロシーの心は、ひたすら彼女を見つめるだけの男であるデニス・ホッパーに隷属しているのだ。

そして、ジュリエット・ビノシェ。彼女は、たとえばイザベラ・ロッセリーニのように<観られること>を運命づけられた女優とは対照的に…。
いや、やめておこう。彼女については、<わからない>と素直に告白しておくべきだろう。あえていえば、この『ダメージ』という映画のなかで、彼女の棲む迷宮にまよいこんだジェレミー・アイアンズが、彼女の魅力ゆえに破滅へと導かれ、しかし、かろうじて死だけは免れ、住みなれたロンドンを捨て、あのウィリアム・バロウズが極刑を逃れるために訪れたタンジールへと流れつき、ひとりごちた言葉がすべてを語っているにちがいない。

「けれど、彼女は、普通の女だった」

『汚れた血』では『勝手にしやがれ』のジーン・セバーグ、この作品では『ルル』のルイズ・ブルックスの引用として現れる彼女なのだが、その<普通さ>ゆえに、彼女の存在感はオリジナルの女優たちが放つ強烈なイメージに吹き消されかねないほどに、希薄だ。けれど、ただそれだけの女優だとしたら、彼女がおこす衣擦れの音にさえ胸をかきむしられるような、あの不思議な求心力はどこからくるのか。
思えば、彼女は<語られる女>だ。それも、なぜか彼女に魅かれる男たちが、その理由となるはずの答を懸命に模索し、そして、その理由を語らずにはいられなくなる女だ。そして、愛するのに理由がいる女は、男にとっては謎なのだ。だから彼女を前にして、男は尋ねずにはいられない。

「君は誰だ? なぜ私の前に現れた?」

なるほど。彼女は永遠の謎によって男の視線を誘いこむ、あの<スフィンクス>だったのだ。





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註釈:浜辺から遠く離れた洋上を走る小さな船は、蜃気楼によって、ちょうど喫水線に鏡を置いたように見え、まるで口だけの怪物が顎を動かしながら泳いでいるように見えます。そして古代の人間達はそれを見て、そのような怪物が実在するところを見つめていたわけです。現在の私が見てもそれは畏怖すべき禍々しい怪物として脳裏を狂わせます。ましてや古代の人間たちにとってそれはまぎれもない現実であり、逃れられない恐怖であったでしょう。蜃気楼とはすなわち<恐怖の実在>であり、そして、それゆえに汲めど尽きぬ<情熱の源泉>なのではないでしょうか。未知の街角には常に恐怖が待ち伏せしています。そして私たちはその恐怖に吸い寄せられていくのです。

I Remember Charlott

.18 2010 女優 comment(2) trackback(0)


そう言えば、ぼくは『愛の嵐』という映画を劇場で観ていない。それどころか、何とか手に入れたビデオも米軍に物資をサプライしている業者から内密に手に入れた輸入盤だったので、日本語の字幕などは勿論ついておらず、おぼつかない足取りでつまづきながら物語を追った経験しかない。
しかも、主演の美少女のスチール写真から勝手に想像の触手を広げた物語があまりに官能的だったので、いったい何を観て、いったい何を捏造していたのか、今となってはさだかではないのだが、ぼくの脳裏では様々な映像が、『愛の嵐』というインデックスを付けて眼球裏のアルバムに収まっている。それはこんな話だった。

ナチズムをめぐる言説はよく聞くけれど、ヒューマニズムに裏打ちされたファシズム批判のプロパガンダに終始するものがほとんどで、この映画のように、ナチズムの美学に骨の髄まで溶かされた男女を描いている作品など少数派に違いない。
しかし、ナチズムのもつ狂気というか、人が人に施す行為についての、想像力の限界値に近い、試行錯誤の結果としてあらわれた極限状況ほど、倒錯的な世界を描くのにふさわしい舞台はない、というのも、惨たらしい事実なのだ。
たとえばこんな情景がある。煙草の紫煙がたちこめる捕虜収容所の一室で、ナチの将校達にかこまれて、肘まである革の手袋、ハーケンクロイツの軍帽、サスペンダーで吊るしただぶだぶのボトムスだけを身にまとった半裸の少女が、物憂い歌とダンスを披露している。骨格が透けてみえる薄い皮膚が悲しいほどに美しい。
シャーロット・ランプリングという女優は、このようにして銀幕に登場した。
ユダヤの捕虜として選別されたのち、美貌を気にいられて将校用の娯楽の供物とされて、その代価に捕虜としては特権的な地位を手に入れた少女という役柄だ。
どっちに転んでも、いずれは死によってのみ解放されるはずの閉鎖的な空間のなかで、家畜へでも向けられたような冷たい視線、劇場と化した小部屋で暗い欲望と共に突き刺さる視線、さらには、同胞からの嫉妬と羨望と侮蔑に縁取られた視線などが、彼女のからだに、まとわりついて離れない。
しかし、それらの交錯する視線、つまり、彼女を観たいという欲望だけが、少女の生命を支えているのだ。
こうして生き延びた戦渦のはて、ようやく平凡な市民生活を手に入れた彼女だったが、あるホテルに宿泊したさい、そこの夜勤に身をやつしていた元ナチ将校の視線に曝される。その運命の瞬間から、かつてのように視線を求めあうだけの倒錯的な物語がはじまりを告げる。
これこそは、ただしく、<女優という人生>についての鮮やかなメタファーに他ならないだろう。シャーロット・ランプリングは、この映画でのみ記憶されるべき女優なのだ。そうそう。監督はリリアーナ・カバーニ。共演はダーク・ボガート。この役者がまた実にすばらしいのだが、この映画はシャーロットのものだ。 





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註釈:残酷な体験によって誇り高い覚醒を得ること。これが<聖人>と<怪物>の両者に備わる属性のひとつである。
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プロフィール

ashzashwash

Author:ashzashwash
桑原義江。男性。Ash。あるいはy<kと名乗った事もある。あるジャズ・レーベルのマネジメント・オフィスに勤務。その傍ら知人の紹介で、ファッションビルの広告媒体や某音楽系出版社の女性雑誌にアート関係の記事を書かせて頂き、その稿料で貧困生活を糊塗する日々が続く。或る日の朝、出勤のため恵比寿の坂道を下っている時に何もかもが嫌になり、地下鉄丸の内線日比谷駅のホームのベンチに蒼白な顔色で座っている姿を学生時代からの友人が見かけたのを最後に、東京23区内から失踪。赤坂のオフィスのデスクの上に残された遺留品は、デルヴォーの画集、カランダッシュの青いボールペン、それからビル・ラズウェルのライブのデモテープ、以上の三点であった。その後、アムステルダムの娼婦街でよく似た横顔の女衒を見かけたという報道もあったが、本人が非公式に否定。現在に至る。

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