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創世記

.16 2010 断章 comment(4) trackback(0)


はじめに1と0があった。それからシリコンの神が地上に降り立った。それはかつてマクルーハンが預言していたように、地球をひとつの単位とした大きな村という環境のなかで、カプセルに入ったままの個人が電脳空間を通じて崇拝する神であった。そしてそれは、やがて人類がサイバネティックに進化した果ての姿である珪素動物が拝謁する神の降臨でもあった。

思い出すがよい。ぼくたちは既に<文明化>という波に敗北している。経済的にそこそこ成功した国家であるということが既に敗北なのだ。ぼくたちは<文明化した野蛮人>にすぎない。<文明化できない野蛮人>は殲滅される。アフガニスタンのように。<文明化>を<グローバリゼーション>と読めば分かりやすい話だ。既に<円環としての時間>は失われた。かつて歌人が詠んだゆく川のながれは、今となっては<絶える>運命なのだ。

即ち、ぼくたちに残されたのは、終末が訪れるリニアルな時間の流れだけだ。しかもそれは現在、瀕死のアメリカが金のためにイスラエルに肩入れしているために、結果的に<ユダヤ的終末感>が世界を席巻しようとしているのだ。リニアルな時間のなかでは、人類は進むしかない。立ち止まったものは腐る。しかし、その先には、審判が待ち、終末が待っている。アンチ・キリストを打ち倒し、メシアの前に平伏するためには、終末の時まで進むしかない。これが進歩の真相だ。

では、進歩の先に何があるのか。そこには救済されたはずの人種が幸福に暮す永遠がある。永遠。閉じられたなかでの永遠。それは緩慢な熱的死。冷えきった、平坦な世界。これが千年王国の真実だ。だから千年王国は永遠に先延ばしにしなければならない。千年王国のヴィジョンとは繰りかえし垂れ流しにされる本編なき予告編なのだ。さて、この真相を知ったものはみな、発狂するか、集団自殺するか、何も見なかったふりでもするしかないだろう。結局、ぼくたちは、暫定的な世界に棲息する<文明化した野蛮人>にすぎない。

だからこそ、ぼくたちは野蛮人である自覚が必要だ。野蛮人であり、かつ、文明化した野蛮人だ。本物の文明人ではない。高級官僚の諸君はそこのところを誤解しているのではないのか。君たちは名誉白人にでもなったつもりなんだろう。しかしぼくたちは、永遠に背広を着た<黄色いサル>にすぎない。ぼくたちは<文明化>を選んだ時点で既に敗北しているのだ。だから諸君の生き方は全く参考にならない。道化さえ蔑む屈辱的な捕虜としての人生だ。

ぼくたちの希望は路地と硅素にある。それが新しい<神>と<幻想基>と<集合的無意識>の三位一体の謎を解く鍵だ。それは<PC>と<サイバーシャント>と<インターネット>の三位一体。ぼくたちは野蛮人の本能に従い、文明人には悪霊としかみえぬ姿に変貌し、まったく新しい進化を迎えるのだ。その進化に呼ばれている者たちがいる。それは路地に潜む者たち、携帯を覗かないと生きている気がしない者たち。ドラッグに溺れる者たち。躯じゅうに無数のピアッシングをしてしまう者たち。皮膚のいたるところにタトゥーをしてしまう者たち。そして右腕に、PCと一体化するための、サイバーシャントを施す者たち。君たちは進化に呼ばれているのだ。マイケル、君も進化に呼ばれていたのかい。孤独かい。もう少しの辛抱だ。もうじき、みんなが君を追うだろう。

そういえば、<進化>と<道化>って、文字が似てるじゃないか。





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註釈:ついでだから、たとえば戦後派と称される作家たちに代表される日本の文藝作品に横たわる、<ぼくたちはシステムに押しつぶされそうだ/誰かがシステムを支配している/だからぼくたちには何もする術が残されていないんだ/という閉塞状況>が人間を不幸にしているという幻想、この浅薄にすぎる<システムに対する過度の強迫観念>への異義申立も申請しておこうかな。

付記:もう一度だけ同じ趣意の付記を書いておこうと思いました。つまり、そもそもぼくが書いているものは無知なる者(ぼくのことですが)が生きているうちに脳髄の底からこみあげてくる曖昧模糊とした沼気のようなものがほとんどでして。まあ、いわば道化のパフォーマンスとでもお考えいただければ望外の喜びなのです。
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全人類に花束を

.15 2010 断章 comment(6) trackback(0)


そう。思えば、近代の病が世界を席巻してもう随分経ちますね。そろそろ<何か>が起きるのでしょうか。起きて欲しいような、起きて欲しくないような。

しかし、そんな<何か>よりも早く「偽りの救世主」があらわれて、全人類の悲願である「世界の終わり」が実現される、なんてこともSFではよくある話で。

それというのも、「世界の終わり」は全人類の悲願である、とでも思うしかないほど繰りかえし予言されてきましたからね。

娼婦が世界最古の商売ならば、「世界の終わり」は世界最古のスローガン。誰もが心のそこでは密かに夢みているのかもしれない。だって、死ぬ時に孤独じゃないもの。誰だって、ひとりきりで死にたくはないはず。

そういえばスピルバーグの映画に「宇宙戦争」という秀作があるけど、もし、あれがアン・ハッピイに終わっていたら途轍もない傑作になったのに。

たとえば、こんな風景がぼくには好ましい。

「世界の破滅、そろそろかな」
「そうかもしれないわね」
「それまでに、裏庭の壊れたテレビ、燃えないゴミに出しとかなきゃな」
「そうね。それより私、破滅のとき、何着ようかしら」
「この前、法事に着ていったドレス、あれでいいじゃないか」
「いやだ辛気くさい」

無意識は人の内部にはなくて、人と人の間に、惨たらしく横たわっているのです。





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註釈:無我はデンジャラス・ゾーンだが、忘我はセーフティラインぎりぎり、全体主義やファシズム等にみられる他我、もしくは多我への没我については、もはや試合続行不可能としてコールド負けを宣告。試合後に八百長の疑いありとしてコミッショナーに試合結果の無効を要求。しかしコミッショナーは両腕を掴まれているうえに、ズボンのなかに手をいれられているので、まったく交渉の余地なし。

死のリレー

.02 2010 断章 comment(6) trackback(0)

カムチャッカの少年が錆びたナイフで古い鯖缶を開けようとして指を傷つけ三日後に敗血症で死を迎えようとしている頃、


表参道の遊歩道ではキャバクラ勤務の平凡な少女が逆恨みをした常連客に刺身包丁で喉笛を切りつけられて即死していた。


ぼくたちは死をリレーしているのだ。





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註釈:未知の街角で待ち伏せしているものはすべて恐怖だし、絶望と笑いは共に手を携えてやって来る。黄昏時の表参道にはバニラエッセンスの薫りが漂っているけれど、ふと下を見ると、白日の舗道に落ちた空薬莢ひとつ。いずれしてもぼくの欲望を前にしては世界など無力な存在に過ぎない。しかし、ぼくの欲望もまた世界を前にして無力な存在なのだが。

Invitation

.30 2010 断章 comment(8) trackback(0)

生は死の忘れがたみだ。死が生を愛するあまりに、思いださずにいられない残像、それが生だ。それゆえに、死は実在するが、生は非在であり、一瞬だけ浮かびあがる、美しいまぼろしなのだ。





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註釈:年齢ってヤツを無造作に折り畳んで押し入れにしまいながら、だんだん気力ってヤツが零のほうにばかり振り切れるようになってきたことに気づきました。そういえば数年まえ、仕事をやめて金が切れてきた頃、バイトの面接のために早起きして、知人と駅前で待ち合わせした時のこと、駅前でおたがいの目があった瞬間、どちらともなく「やめよーぜ」と力なく合意に達し、ふたりでたらたらと朝の陽光のなかを散歩しながら帰ったことがあります。途中でサラ金にはいって、手持ちのカードでマシンから1万円借りて、そいつに貸してやりました。もうそんな気力さえ残っていないような心意気です。ところでそいつは行方不明です。いや。むしろ行方不明なのはぼくのほうなのですが。いずれにしても勝利するのは亡霊。導くのは無意識。生き残るのは他者。それが道理ってもんです。まあ、ぼくはおよそどんな道からも逸れてしまっているんですけどね。

一瞬の敵

.25 2010 断章 comment(5) trackback(0)

今年はなんだか、寒さが身にしみて、ついにユニクロのフリースなるものを着用に及んだのだが、どうもこのフリースというやつを着てると、心が荒むような気がしてならない。軽くて、暖かくて、安くて、便利なんだけどさ。そういえばコーデュロイやGジャンを着たときも、なんだか心が荒むのだが、あれはそれなりに風情のある荒みかたというか、まあ、路地裏系の荒みかたがして、ある種の小気味よさが同居している荒廃ぶりなので許せるのだが、フリースの荒みかたにはこれっぽっちも救いが感じられない。生きながら産業廃棄物になったような気分がするのだ。つまり私の真実があからさまになってしまうのだ。そりゃあ、救いがないはずだ。捨ててしまおう、自分ごと。そして私は廃棄物になるのか。ごみすてばの廃棄物になるのか。もうすぐ島にいって、無数のかもめたちによる無調音楽のコンサートを聞きながら、ゆっくりと死ぬまでの余生を過ごすのさ。ああ。それにしたって、私はどうもアメリカ産の白豚のひげ面が好きになれないのだ。ジム・モリソンとかブライアン・ウイルソンとかジェリー・ガルシアとかビル・ラズウェルとかビル・ラズウェルのマネージャーとかが、どうしても好きになれない。特にビル・ラズウェルのマネジャーとはイベントの仕事の時に喧嘩して、たちの悪い悪戯をされたので、預かっていたパスポートを顔の前でちらつかせて、お前らのパスポートを今から燃やして灰にしてやる、といって脅かしてやったことがあるくらいだ。ていうか、そのせいでアメリカ産の白豚が嫌いになったのかもしれぬ。あっちは最初から私のことが気にくわなかったようだが、こっちはあんな白豚、最初から、名前すら覚えていなかったのだがね。あのあと、そいつは主催者に泣きつき、私はそのイベントを首になりましたとさ。さて、じゃあ、どんなのが好きかというと、サム・クックとかマ?ビン・ゲイとかボブ・ディランとかデヴィッド・ボウイとかデヴィッド・シルビアンとかが好きなのだから、要するにアフリカ系アメリカ人とユダヤ系アメリカ人とデヴィッドという名前のイギリス人というのが私の好みということだな。女の場合はスラブとかアラブの血が混じってるのがいいなあ。つまりナスターシャ・キンスキーとイザベル・アジャーニのことだがね。さて、じつは、ホントに一番きらいなのはヨーロッパのブルジョア、とくにイタリアのブルジョアなんだけど、これは旅先でいやな目にあったからさ。むこうはもっといやな目にあったと思ってるだろうけど。そういえばミラノに行った時、例のドームに着いたら、まわりの観光客がいっせいにジプシーの子供たちに襲われたのに、私にだけ誰も寄ってこないので傷ついたことがある。無造作な長髪、カルバン・クラインの革のブルゾン、リーバイのスリム、ロセッティのブーツ、それなりにこぎれいにしていたのに。よっぽど金が無いと思われたのか、インディアンだとでも思われたのか、同じジプシーのデキソコナイだとでも思われたのか。頭に来たので、自分からジプシーに近寄ってみたのだが、今、忙しいんだ、あまえはあっちのカモを狙え、という顔をされた。なるほど。スリだと思われていたのか。そういえば私は、学生時代、授業中に先生に差されると<ちっ>と舌打ちしていたので、教室中がシーンとなってたっけなあ。自分では気づいていなかったのだが。卒業してから友だちが教えてくれたのだ。みんなカタズをのんで見守っていたそうだ。いまさらそんなこと言われてもしょーがねーよな。言ってくれれば直したのに。しかし考えてみれば、たまたま仕事で出会ったりして、もしかして友だちになれそうなやつって、みんなユダヤ系だったなあ。アメリカがイスラエルの肩ばかり持つんで、世界中が、なんだか反米の余勢を受けてアラブに同情的だけど、ああ、しかし、たとえばシェイクスピアの戯曲で悪者あつかいされたユダヤの商人シャイロックは、<われわれユダヤ人にもおまえら一般ピープルと同じように血と肉体があるのだ!>と主張したに過ぎなかったのだが、結局、世界から黙殺されたんだよね。アラブも神のことばかり言ってないで、自爆テロなんてやらないで、自分達にも血と肉体があるのだ、白人と同じ人間なのだ、と主張すべきだと思ったりもしたけど、結局、同じことだろうよ。そもそも名前を変えたブルジョア個人主義、つまりグローバリゼーションという怪物がこの戦争の原因なのだ。ユニクロよ、きみらが賃金格差を求めて中国に工場を立てている事が、アフガンやイラクで引き起こされる戦争の原因なのだ。ユニクロよ、賃金格差を求めて世界中をさまよう気なのかい。ユニクロよ、すでに中国に建設した工場は人民に捧げる気かい。捧げなくても収奪されるだろうけどさ。それが彼らにとっては正義だから。ユニクロよ、いいことを施しているつもりの善良な企業が、地元では実は憎まれており、ノウハウだけ盗まれて、ほうほうのテイで逃げ帰るというパターンにはまる気かい。ユニクロよ、きみらが名を連ねるグローバリゼーションという怪物は、自分達の棺桶をせっせと大量生産しているのだ。ブッシュはその棺桶をみて<棺桶だけこんなに作ってどうする、中身が必要だろうが、ようし中身はおれが用意してやるよ>と言っていただけなのだ。だとするとビン・ラディンは、さしずめ『荒野の用心棒』のクリント・イーストウッドだね。するってえとブッシュはイーストウッドにつきまとう葬式屋だ。いうなれば、今やブルジョア個人主義の最終段階に来ているという訳なのさ。指輪を手にした者が、あらゆる労働力の、唯一の所有者になるのだ。それは終焉の世界だ。それは周縁の無い世界だ。それは終演のあとに地下鉄も電車もバスもタクシーもない世界だ。そもそも劇場などない世界だ。ついに熱的死が訪れた世界だ。それにしても、悲しいことに、死は受け入れ難いのに、いつも勝手にやって来る。まるでサラ金の取り立てのように。私はいよいよ寿命がきたら、押し入れのなかで死にたいと思うのだ。まるで猫のように。ひっそりとね。でも死体を誰かにいぢられるかと思うと恐ろしくて、とても死ぬ気にはなれない。いったいどうすればいいのか。それにサラ金の取り立てと猫の死を比較してどうなるというのか。そして、いったい誰が指輪を捨てに行くというのだろうか。友よ、その答えは風に嬲られている。その風は竹の笹でこしらえた鞭のように私の頬を切裂く。血がしたたり落ちる。気が遠くなる。薄れつつある意識の底から、笹の鞭を持って私を嬲るジャイアント・パンダの愛らしい姿が、ちらりと見えた。





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註釈:そういえばオースン・ウェルズが『第三の男』のなかで語った言葉を思い出す。「覚えておくといい。理想主義者ってのは悪党よりはるかにタチが悪いんだ」。

ふと気づいたんだけど、ユニクロじゃなくてグーグルにしたほうがアップ・トウ・デイトだったな。まあいいや、このままで。

蛇足:オースン・ウェルズで思い出しましたが、美女ビビアン・リーの「哀愁」と、象男ジョセフ・メリックの「エレファント・マン」のストーリーは、美女と奇形という違いを越えて、物語の構造がほぼ一致するという事実に驚いたことがあります。これはジョン・フォードの『駅馬車』とオースン・ウェルズの『市民ケーン』の構造が似ているとかいう伝説などより遥かに似ているようにも思えます。世間からみれば美女も奇形として扱わざるを得ない。それは見た者に眠れぬ夜をもたらすものだから。そして行く末も同じようなもの。座敷牢かサーカスか、深窓の令嬢か街角の売春婦か、場末の見世物か銀幕の大スターか。

Through Me the Index Cutting & Cutting

.18 2010 断章 comment(1) trackback(0)

ロザリンド・クラウスによれば、美術界においても<インデックス>という表層の病いはかなり進んでいるらしい。

写真を制作過程における主要な手段として用いるアーチストが増えているばかりではない。たとえば絵画においても写真的であることが追求されている。写真とは、作家のコードやサインを持たない無媒介性を最大の特徴とする装置だ。つまり対象と写真との間には何もない。写真に期待されているのは世界というアルバムの<インデックス>にすぎない。こうした無媒介性を追求する絵画とは何か。思うに、それは<オリジナリティの神話>への懐疑という次元を超えて、ある種の殉教者的な態度、あるいは共犯者的な行為、つまり、ある態度に対する無私的な献身を要求するものかもしれない。

Everythig is surface.
The surface is what is there
And nothig can exist except what is there.

これはアメリカの詩人、ジョン・アシュベリーの言葉。とにかく。すべては表層にすぎないし、表層はそこにあるだけ、そこに表層としてあるだけ。だから<深み>とか<情趣>とか<オリジナリティ>なんて幻想かもしれないし、そうじゃないかもしれないし、まあ、どうでもいいじゃないか。これからのことはこれからのことだ。どうせぼくの言葉は断片に過ぎないしね。





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註釈はない。どうせぼくなど、やさぐれた断片にすぎない。断片は不揃いで、価値がなく、交換不可能で、だから市場で値がつかない。それがどうした。だから唯一無二の存在なのさ。ぼくは断片が大好きだ。因果を言い含めるには、わずかな暗示だけでいいのさ。それで十分だ。

それからぼくはざわめくものの気配をききつける。そのざわめくものは、目をそむけるしかない異形の顔をしているという。だからぼくは目をそむける。ざわめくものの顔に生えた剛毛が、ぼくの顔の近くで揺れてるっていうのに。ざわめくものの饐えた息づかいが、ぼくの頬をなぶってるっていうのに。ぼくは目をそむける。いつまでもこうして目をそむけている。

そのざわめくものの正体はいうまでもない。欲望という奴だ。欲望に魅せられた人間は、あの懐かしい「悪魔と契約した男」と同じ道を辿ることになる。契約するのか? ならばお前は破滅だ。契約しないのか? ならばお前は破滅だ。どちらを選んでも同じこと。悪魔と出会った瞬間に、ぼくはすでに破滅しているのだ。

詩の誕生についての些細な思いめぐらし

.11 2010 断章 comment(2) trackback(0)

<母親の欲望>とは、母親と子供のあいだに存在するもので、自も他もない渾沌の渦がしだいに陰と陽をなしていく鏡像段階において、子供のまえに忽然と出現する権力の言葉だ。しかもその言葉は母親からすればフィシス、子供からすればノモスという二面性を持っている。フィシスの顔をしたノモスだ。しかもそのノモスは母と子という閉ざされた空間で形成された偽のノモスとして子供のなかで君臨している。そこで、この偽のノモスに対抗すべく父親というものが子供のまえに登場し、社会的言語によって構築された真のノモスと対峙させることで、子供は己のなかのノモスが実は<母親の欲望>に過ぎなかったことに気づく。つまり父親の存在意義というのは、子供が真のノモスに屈服するにせよ、あるいは反抗するにせよ、そんなドラマは二次的な意味でしかなく、何よりも、子供が自ら葛藤の果てに、己のなかに胚胎したノモスが、実は<母親の欲望>でしかなかったという真実に気づかせることにこそ、重要な意味があるのだ。なぜならば、己のなかのノモスがノモスの顔をしたフィシスであり、しかもそのフィシスは<母親の欲望>によって汚された偽のフィシスであることに気づいて、ようやく子供は真のフィシスと出会う準備ができるのだから。そして、そのことに気づいた子供は、ある晴れた日の昼下がり、何やらとてつもなく他愛のない出来事のさなかに、突然フィシスと出会うことになる。その瞬間、子供はこの惑星に生まれ落ちてきてこのかた一度も味わうことのなかった、<生きている実感>というものを体験できるのだ。





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註釈:リライトするために読み直したときに、思わず「ノモスとフィシスって何だよ」と自分で自分に問いかけたほどだから、ここはどうしても一言書いておかねばならない。それで自分に問い直したときに思い出したのだが、別に「母親の欲望と父親の言葉」について書きたいのなら「ノモスとフィシス」などという対比を持ちだすまでもなかったのだ、という事。ぼくがここで書きたかったのは、「詩的悦楽が生まれる瞬間にこそ生きているという実感が現出する」という事だったらしいので、どうしても「母親の欲望」の二面性に言及する必要があったんだね、多分。などと他人事みたいだが、随分まえに書いたので推測するしかない有様だ。後半はかなり直した。自分でも正解がよく判らないので「ぼくが言いたかったのはこういう事じゃないかな? と推測しながらだが。今にして思えば、ノモス=建前、フィシス=本音、とでも表現しながら書けば判りやすかったのに。でもそれだと詩的悦楽の崇高でかつ官能的なイメージが台無しじゃないか。
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プロフィール

ashzashwash

Author:ashzashwash
桑原義江。男性。Ash。あるいはy<kと名乗った事もある。あるジャズ・レーベルのマネジメント・オフィスに勤務。その傍ら知人の紹介で、ファッションビルの広告媒体や某音楽系出版社の女性雑誌にアート関係の記事を書かせて頂き、その稿料で貧困生活を糊塗する日々が続く。或る日の朝、出勤のため恵比寿の坂道を下っている時に何もかもが嫌になり、地下鉄丸の内線日比谷駅のホームのベンチに蒼白な顔色で座っている姿を学生時代からの友人が見かけたのを最後に、東京23区内から失踪。赤坂のオフィスのデスクの上に残された遺留品は、デルヴォーの画集、カランダッシュの青いボールペン、それからビル・ラズウェルのライブのデモテープ、以上の三点であった。その後、アムステルダムの娼婦街でよく似た横顔の女衒を見かけたという報道もあったが、本人が非公式に否定。現在に至る。

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