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アシッド、あるいはラディカル・ナルシズムの誘惑 #2: when doves fly

.09 2010 短篇 comment(3) trackback(0)


窓の外の風景に厭きたのでカーテンをつけることにした。明るすぎるくらいの部屋が好きなので、今までリビングには付けずにいたのだが仕方がない。大井町の駅ビルの中の雑貨屋で安いベッドカバーを購入し、金具をつけてカーテンがわりに吊してみた。思えばこうして何かに厭くたびに、すべてをチャラにして、ありったけを失って、無益な転居を繰りかえしてきたのだ。
ここにくる前は恵比寿の古いマンションの10階に住んでいた。駒沢通りに面しており、夜中でも車の騒音が鳴りやまず、振動に馴れるまでは眠れなかった。恐ろしく古いマンションだった。今ではあの高さの建築物は建てられないはずだ。水道水には色がついていて、とても飲めたものではなかった。屋上の貯水槽に鼠の屍体でも浮いているのだろうと思った。毎日、ミネラル・ウォーターを買うことにした。電気系統は漏電しているらしく、転居した翌日、東京を直撃した台風のさなかにあっけなく停電した。翌朝、台風が去った快晴のなかで電力会社に電話していると、脈絡もなくいきなり電源が復旧した。乾いたら通電したらしい。もう知ったことか、勝手に漏電するがいい、そう思って電話を切った。ベランダのコンクリートには無数のヒビが入っていて、そのヒビの隙間から赤錆びた鉄骨が見えた。いつ落下してもおかしくないと思った。
その年の冬、このベランダに鳩のつがいが巣を造り、四個の卵を産んだ。黄色く変色した一個をのぞいて三個の卵が孵った。孵化を楽しみにしていた鳩の雛は驚くほど醜かった。いつ可愛くなるのだろうかと思い、成長を楽しみにしていた三羽の雛だったが、その醜い姿のままに大きくなっていった。ある日、一匹の雛が飛行の練習をしているのを目撃した。ベランダの一角に凹みがあり、40センチほどの間隔があるのだが、大きく広げた羽をさかんにばたつかせ、その40センチの間隔を何度も危なっかしくジャンプして往復しているのだ。しかし、たかが40センチとはいえ、その隙間から足を踏み外せば、地上10階の高さから眼下のアスファルトに落下してしまうのだ。森に棲む鳥たちと比べて余りにリスクの高い飛行練習ではないか。その時はじめて、鳩の雛を可愛いと思ったのだったが、そういえば、あれは、その冬のことだった。
一緒に暮していたKとは口争いが絶えなくなっていた。ある夜、ついにKは帰ってこなかった。明け方になっても帰ってこなかった。こんな事は始めてだった。Kと暮しはじめてから一晩として離れていた事はなかったのだ。白みはじめた空を意識しながら、玄関のドアを開けて通路に出た。エレベータの音に耳をすませた。外階段の踊り場に立ってマンションの入口を犬のように見張った。そして階段を何度も降りては上がり、上がっては降りた。体を動かしていないと胸が焦げつきそうだった。ときおり部屋に戻って電話を確認した。心当りに電話する勇気はなかった。
夜明けは過ぎてしまった。朝のひかりを浴びながら踊り場に立っているのが苦痛になってきた。眼下のマンションの入口には平和な日常があった。赤いランドセルを背負った少女が駈けていった。部屋に戻ってシャワーを浴びた。温水を浴びながらタイルの上に座りこんだ。脈絡のないことを考えながら、今日やるべきことのリストを数えあげた。ひとつ、地図帳でKがいる場所を確認すること。ひとつ、東急ハンズでハンティング・ナイフを買うこと。ひとつ、Kの相手を不具者にすること。ひとつ、Kを殺すこと。シャワーの熱い飛沫を浴びながら、今日やるべきことのリストを何度も何度も諳誦した。





0586.jpg





註釈:他者というのは自分という境界のなかには存在しないものなので、その境界線の外が幻覚なのか現実なのか、もしかしたら判らないのではないでしょうか。よく判りませんが。
また、ヴィトゲンシュタインに「自分の限界値の境界線を引くことは出来ない」という発言があることを、私はあるハードボイルド小説の主人公の科白によって知っていますが、そもそも境界線を引いてみるような余裕があるのなら、さっさと踏み越えてしまえば良いのかもしれません。
振り返ってみれば、自己の形成とはすなわち、断続的な失策の積み重ねにほかならないように思えます。自己を野菜に例えてみれば、さしずめアーティチョークでしょうか。失策のアーティチョーク。ぼくはアーティチョークが大好きです。とりわけ地中海を現前にしたカダケスのビーチカフェで食べたニース風サラダの味は格別だった。カダケスにニース風サラダがあれば、という架空の話ですけどね。

comment

遊離哉(aoloaakua)
かつて住んでいた富久町のぼろマンションを思い出した。同じフロアにはなにやら怪しげな団体の表札が3つもあり、エレベータには指紋をとったあとがずっと消えずに残っていた。ベランダは靖国通りに面していたが、なぜか一段低くなっていて、ベランダに出るといつか落下すると想像した。しかもドアは少ししかあかず、洗濯物は干せなかった。引っ越ししてきたとき、ベランダにはハトの卵が1つ落ちていた。表と裏は墓場で、とても素敵な環境で毎夜なにやら通り過ぎて行ったが、何も気にしなかった。そんな素敵な新宿の住まいを思い出した。もう昔のことだ。
2010.04.09 22:09
forgetful_cat
何処かが欠けているから
何かで埋め合わせようとするのだけれど
それはどれも欠けた所と
同じ形をしておらず
噛み合ない隙き間や
互いの突起で傷付け合い
そして、いつかは離れてしまう
ぴたりと嵌る欠片が欲しい
吸い付く様に合わさって
離れない欠片が欲しい
2010.04.10 01:09
ashzashwash
言葉は人とのコミュニケーションのためにあるのではないのかもしれない。言葉は世界とのコミュニケーションのためにあるのかもしれない。人びとは世界を媒介として他者と出会うのかもしれない。だったらべつに他者なんかと出会わなくてもいいのかもしれない。

あれ、結論が変だな。やり直し。

言葉より先に世界が存在した。だから世界を理解する為には、世界との逢瀬の度ごとに、それぞれの状況についての新しい言葉が必要なのだ。そしてここで問題なのは、われわれは言葉に操られてはならないということだ。言葉の意味とは、その言葉が示す対象や行動ではなく、その言葉の裏に秘められているはずの、その言葉が世界にもたらすかもしれない新しい展望なのだ。換言すれば、その言葉がなぜ必要とされたかという問いに真摯に答えようとする意志なのだ。われわれは言葉の対象や行動に操られてはならない。われわれは世界の意志を自らのものとする、かつてないほどの非個人性へと向うのだ。

うーん。われわれわれわれって、何だかファシズムの匂いがするなあ。

そういえばロラン・バルトが「言葉は端的にファシストなのだ。なぜならファシズムとは、何かを言うことをさまたげるのではなく、何かを言わざるを得なく強いるものだから」とか書いていたらしいね。

何いってやがる。世界こそが真の牢獄じゃないか。世界のどこに出口があるというのか。今、おれがいるこの場所、この牢獄のほうがよっぽどましだ。だって出口があるもの! 牢獄に入り、そして、そこから脱獄するという冒険! この愉悦! わくわくするだろう? きっと愉しいさ。これからの日々。そうとも。おれは待ち遠しくててならないのさ。早く投獄してくれよ。独房に。おれの褥に。ところでひとつ頼みがある。おれの誕生日の話なんだけど。牢獄の鍵をプレゼントにくれないか。いや。言ってみただけさ。別にどうだっていいんだ。どうせいつかは腐る躯だ。未来なんてろくなもんじゃない。おれはただ、旨いものが喰いたかっただけさ。
2010.04.10 21:16

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ashzashwash

Author:ashzashwash
桑原義江。男性。Ash。あるいはy<kと名乗った事もある。あるジャズ・レーベルのマネジメント・オフィスに勤務。その傍ら知人の紹介で、ファッションビルの広告媒体や某音楽系出版社の女性雑誌にアート関係の記事を書かせて頂き、その稿料で貧困生活を糊塗する日々が続く。或る日の朝、出勤のため恵比寿の坂道を下っている時に何もかもが嫌になり、地下鉄丸の内線日比谷駅のホームのベンチに蒼白な顔色で座っている姿を学生時代からの友人が見かけたのを最後に、東京23区内から失踪。赤坂のオフィスのデスクの上に残された遺留品は、デルヴォーの画集、カランダッシュの青いボールペン、それからビル・ラズウェルのライブのデモテープ、以上の三点であった。その後、アムステルダムの娼婦街でよく似た横顔の女衒を見かけたという報道もあったが、本人が非公式に否定。現在に至る。

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